ニッポンの教育ログを考える——プライバシーフリーク・カフェ#16(前編)
大変お待たせいたしました。去る2022年1月20日に開催されたプライバシーフリーク・カフェのもようをお届けします。16回目を迎える今回のテーマは「教育ログ」。ITmediaさんからCafe JILISに場を移してのお届けとなります。前後編の2回でお届けいたします。
(司会)高木浩光
(パネリスト)山本一郎/板倉陽一郎/鈴木正朝
高木:プライバシーフリーク・カフェも、とうとう16回目ぐらいになりまして。今回ご視聴の方々には、これがどういうものか、ご存じない方もいらっしゃるかと思います。
我々、2015年に『ニッポンの個人情報』という本を出しました。これは、プライバシーフリーク・カフェの1回目、2回目、3回目を収録したものです。本も、いずれはパート2、パート3と出したいねみたいな話もあったのですが、まだ出せていないまま、次々と新しいネタが入ってくるという状況です。
翔泳社さんから、ITmediaさんへと移ってきまして、今回から主催をJILIS出版に移しまして、急遽やろうということになりました。これまで進行役は山本さんにやっていただいていたんですが、今日は山本さんに大いに語っていただこうということで、わたくし高木のほうが進行役を務めさせていただきます。
今日のテーマは「教育ログを考える」です。まず、そもそもどういう趣旨で今日お話しするのか、山本さんと鈴木先生と、続けてご説明いただけますでしょうか?
山本:はい、山本一郎でございます。よろしくお願いいたします。今回、お話をさせていただくにあたって、2つの絵柄を用意させていただきました。
まず、公教育における公平とは何なのか? 平等とは何なのか。教育を考えるにあたっては非常に重要なポイントで、非常に強く問われていかなきゃいけません。法律のequality、equity、liberationといった概念が出ているわけなんですけども、本来であればデジタル化は、子どもの学びに対してもっとストレートであるべき、また、受益的であるべきなんですけれどもこの下の絵柄のように本当に求めているものとは何なのかということが、はっきりしないわけです。
私たちは子どもの学習権の実現に向けて求めるべきものに対して、いかに適切に政策的なアプローチを作って、国からの予算も立てて、適切な形で、公教育のICT化を進めていくのか。このあたりをしっかりと設計して行くことが大事なのかなと思っています。まさにホットな話題ですので、今回のプライバシーフリーク・カフェでは教育データというものを取り上げてみようとなりました。
その流れの中で申しますと、「教育データの利活用」っていう、非常に大きな枠組み、取り組むべきテーマがあります。「教育データの利活用」と一口に言っても、さまざまな法的プロセスだけでなく憲法問題なんかもそこに挟まってくるものですから、どうしても泥縄的に、何をしなければならないのか?みたいなことを、有識者の方々も捉えるケースが多かったと感じます。さらにコロナ禍がきて、「学びを止めない」という文科省の英断もあって遠隔教育オンライン教育に対して現状に即し早々に進めていくような素地もそこで生まれた。今回の教育データに関しては、文部科学省やデジタル庁、経済産業省、総務省といった、各プレイヤーの考え方も充分斟酌した上で、何が課題になるのかということを取りまとめたいというふうに思っております。
高木:では次に、鈴木先生、お願いします。
鈴木:デジタル社会に向けて、デジタル庁が新設され、教育においても、柴山先生が文部科学大臣の時にGIGAスクール構想が公表されました。
原則的には画一教育から個別最適化教育という総論や方針については大方の賛同を得られると思うんですよね。電子教科書にはじまり、オンライン上の図書館とか、美術館とか、博物館とか、コンサートホールとか、さまざまなデジタルアーカイブを整備して、大量かつ多様な学習コンテンツのインプットの機会を子どもたちに平等に与えて、経済格差、地域格差を是正するっていうことに関しては、大いにやっていただきたいと思います。
昨今、学習系YouTuberらがわかりやすい講義を無料でやっているし、教育用のアプリも学習効果の高いものがリリースされている、いろいろ学ぶ機会や方法も多様になってきましたので、学習塾に通えない子ども達にもいろいろサポートできる手段も見え始めているということで、端末とネットワーク環境を揃えて、ちょっとしたノウハウと動機付けをすれば、今より格段によくなる可能性が広がっています。デジタル社会における教育のあり方は大いに議論していきたいところです。
しかし、なぜここに来て教育データを大量かつ多様に取得して分析せねばならないという話が出てきたのか?教育理念、そこでの教育目的や教育プログラム、教師の育成、データコントローラーや利用目的などがよくわかっていない中で、教育データを大いに集めて大いに分析しよう、そこから何か知見が得られるかもしれないみたいな話しが、先行して検討すべき事項を飛び越えて進んでいるのか。デジタル社会の個人データ保護法制において、やってはいけない話しまで善意で動き出しているのではないかという懸念を抱いております。そのあたりの事実関係と、法的な問題の所在、情報法上の論点を明らかにしていきたいですね。また、憲法上の教育権の問題などについても議論できればいいなと思います。
高木:はい、どうもありがとうございます。早速、内容に入っていこうと思います。
今日は、内容が盛り沢山でして、大変長くなることが予想されますので、最初に、結局これから何しないといけないんだっていう結論を、先に少し頭出ししておきます。まず私からの観点と、その後、山本さんからの観点ということで2点お話しします。
高木浩光氏の結論:日本の個人情報保護法がOECDガイドラインに準拠していないと発覚
高木:まず私から。結論から言うと、日本の個人情報保護法が実はOECDガイドラインに準拠してないっていう、これが今回バレてしまう事案が起きたということだと、私は思います。
後で詳しく述べますけれども、日本の個人情報保護法は、1980年のOECDガイドライン「プライバシー保護と個人データの国際流通についてのガイドラインに関する理事会勧告」に準拠しているのだとされてきましたけど、実はよく見ると、肝心のところが落ちているのですね。
で、これまで、このことについて皆さん議論してこなかったところ、ついに問題事案が発生した。いや、これから起きようとしているのですけども、教育ログのこの計画を見ると、一番大事なところがスポーンと抜けているということがはっきり見えてくると思います。
我々も今までいろいろやってきましたけど、毎度ここぞというタイミングでこう、立法事実が湧いてくるんですよね。ちょうど日本法に足りないところを突いて、やらかしちゃう人が出てきて、やっぱりこの法律はこう解釈しないといけないとか、改正してちゃんと規定入れないといけないねってなるのを、何回も繰り返してきましたけども、今度はなんと、デジタル庁が立法事実となろうとしているという、これが一つの結論。それで、今後どう個人情報保護法を改正していく必要があるかっていう話を、後半でしたいと思います。
じゃ、もう一点は山本さんのほうからお願いします。
山本一郎氏の4つの結論
山本:高木先生の結論とややかぶるところがありますが、続けて4点まとめて、この教育データ関連議論の結論として提示させていただいております。
まず、「a.個人情報保護法は、もう一度、改正が必要なのではないか」について。
高木さんのおっしゃった通り、現行の教育データ利活用に関して、個人情報保護の観点からしますと、OECDガイドラインだけでなくGDPRも必要最小限度の情報取得の要請に関して、適切に担保できないのではないかという強い懸念を感じます。OECDガイドラインのいう利用目的に対する個人データ取得の適正性と、GDPRが求める最小限度のデータ範囲っていうところですね。このあたりも含めて考えると、日本の個人情報保護法上では適法でも、これらの国際的枠組みからは逸脱しているのは明白ですのでもう一度改正が必要になってしまうのではないかと。今回の令和3年改正での個人情報保護法を守っているだけでは、少なくともOECDガイドラインに関しては、抵触をする。国内法としては適法なんだけれども、国際的な情報法制の枠組みからするとやや遅れていてこれへのハーモナイズを求められていくであろうということが、この教育データ利活用の議論ではっきりしたのではないかなという風に思います。
続いて、「b. 教育データ利活用を根拠づけるための新法か、既存法改正が必要なのではないか(条例で実施したり、適切ではない調査研究で政策決定してはだめ)」について。
教育データの利活用に関する根拠についてでございます。で、これはもうすでに先行している実証研究が複数サイトにも上がってます。例えば、大阪府大阪市、大阪府箕面市、あと足立区など、基礎自治体で行われている子ども見守り事業ですね。これは、児童福祉(Child welfare)で、これ自体は非常に重要な観点です。子どもの、いわゆる虐待であったりとか、もしくは生活保護世帯などでの子どもの生活環境の悪化に伴って、例えば給食費が払われない、学校の成績が急落している、もしくは子ども同士の間で、あまりいい馴染み方が出来ていない等々の、子どもの見守り事案っていうのが発生しています。こども家庭庁設置議論においても、同様の児童福祉は必要ということで、関係部門間の連携をどうしようという議論があるのは皆さまご承知の通りです。
一方で、ここにおいて、心の天気ということですね、子どもに「あんた、どういう機嫌で、今日は学校に来たのかい?」みたいなことを、定性的評価を数値に落とし直してデータ化して、ダッシュボード表示します。明らかに、子どもの感情や気分といった内面にかかわる話です。で、この後詳述させていただきますけど、憲法問題も含めた非常に大きな枠の話になるのではないかと思っています。おそらくは、自治体の条例レベルでですね、学校における教育の現場に対して「これやりますからよろしくお願いします」っていう形で依頼してそのまま実施できるものでは、本来ないのではないかと思うわけです。まさに今、話が進んでいる子ども家庭庁の子ども見守り事案も含めて、教育データの適切な利用について、どういうふうに考えていくべきなのか?このあたりが論点として出てくるのかなと思います。なにぶん憲法事案ですので、ここは、まだ濃いグレーなのかなあっていうニュアンスなのですけども、慎重な議論がされるべきということで、論点としては提示させていただきたいと思います。
次に「c.教育データを活用すれば、こう良くなる(はずだ)」というエビデンスを積み上げないとEBPMにならない」について。
これは、統計量ついてご理解いただける方は皆さん等しくお話しされる部分なんですけど、教育データの利活用と一口に言ってもどこにもエビデンスないじゃないかということはですね、結構指摘される部分であります。これは喜連川優先生やその他、行政法や情報法、教育論も含めてやられてきた先生方が、当時の萩生田文部科学大臣に対して非常に強い働きかけをされたと、私どももよく耳にしております。この中で申しますと、教育データを活用すれば、教育の現場はよくなるのであるという大前提で話が進んでいます。もちろん、データを使えば子どもの教育の品質が上がるであろうという総論の意味では賛成なんですけれども、ただそれはEBPM(エビデンス・ベースド・ポリシーメイキング)に関しては、必ずしも立証されているものではございません。
これに関しては、さまざまな民間のベンダーさんや、あと教育実践学でやられてこられている先生方からすると、教育データを集めれば集めるほど、いろんなものがわかってくるはずだという考えもあるのかもしれないですけれども、ただし、これはあくまで個人に関する情報です。利活用するには目的が必要で、良く分からないけどとにかく全部集めて解析すれば何かいいことが分かるのだ、というのは科学でもないし政策としても不適切なものになります。教育データと教育品質の向上の関係において、まだエビデンスがはっきりしない中で、教育データを、ほとんど悉皆データの形で集めてきて分析すればできるのだっていうような大前提で話をしてしまうのは非常に危険だということが言えるのではないかという風に思います。たくさんデータを集めてきて多変量解析をしたり、人工知能でモデルを立ち上げて深層学習させれば子ども一人ひとりに最適化された学びが可逆的に実現できるのだ、というのはそもそもの研究倫理の上でもそれなりに問題があると思います。少なくとも、適切な個人に関する情報の使い方ではありません。
さらに「d. ポータビリティ、本人同意原則、コントローラーなど、制度設計周りの再整理を」について。
データのポータビリティ、本人同意原則、コントローラーなど制度設計に関しては、ちょっとこう、もう一回考え直さなければならない部分があるんじゃないかと思います。22年1月7日にデジタル庁から出た、「教育データ利活用のロードマップ」に関しては、資料として見る限り非常に出来が良いです。頑張ってよく考えて作ったんだなあと思います。これに関して、ほとんどすべての論点、やるべきこと、考えていきたいこと、まあ、こういうことを目指すのだみたいなことに関しては、概念として抽象的に完全に網羅されていると思うので、非常にいいまとめだし、よくできていると思うんです。
ただ、データの保持の期間で、これは特別のシームレスな情報の持ち方みたいなものが未来図として提示されているんですが、あからさまに個人情報を目的外利用するもので、納税データや家庭に関する情報など、混ぜるな危険の情報を容易照合できる形で使うことになっており大丈夫かというものも含まれています。
その後の子どもの学習権、親の教育権で憲法問題でさえ、本来であれば、名前が出てくるべき教育委員会の役割はどうするのか。さらには、子どものデータを、コントロールするのは誰なのかっていうところです。最終的には、現在の個人情報保護法に基づいて、適正性のある情報の利活用をされているのかどうかってことを確認するための、個人の情報開示請求を誰にどう出せばいいのかは、非常に大事なポイントであるはずですが記載されていません。
一元管理をしないと国が言っていますので、じゃあ、分散管理をするのですねという中で、全体のデータ構造を、誰が把握して、誰がどう統括するのかは、まだ誰もわからないというところが問題としてございます。一回、制度設計については、子どもや子どもの世帯に関する個人情報をどう格納し、いかなる合意や制度に基づいて運用するのかも含めた整理をされると思うんですけど、ここはやはり、はじめにきちんとした方針を示しておいておくべきなのかなと思います。このあたりも含めて、皆さんのご意見もいただきながら整理をしていきたいなという風に思っております。
教育データと憲法問題
高木:なるほど。えーと、これはまだ頭出しでして(笑)、この後、これらをじっくり深掘りして行きます。じゃあまず、山本さんにスライドを用意していただいたので、それに沿ってぶち上げていただきましょうか。一つ目は、教育データと憲法ですか。
山本:はい。ということで、引き続き、山本の方からお話させていただきます。教育データと憲法問題、各政策論の中で、そもそも教育データってなんだっけ?みたいな話が出るんですけれども、これは教育実践学という狭い意味での教育データの使われ方と、今回のような教育ビッグデータ、と申しますか、これがビッグデータなのかどうかはさておき、教育ビッグデータと彼らが言っている教育データの取り扱いについては、一番根幹のところで、どうしても相容れない部分があるんじゃないかっていうことは指摘されるべきだろうと思います。例えば、教育データに関する有識者検討会などでもですね。比較的、教育データの利活用を広く進めたい推進者の側が、非常に強い発言権を持って進めてこられた経緯の中で置き去りになっているのは、この憲法問題じゃないかと思います。
まず子どもの学習権についてですが、憲法26条で定められているのは、「その能力に応じてひとしく教育を受ける権利」。これは義務教育を受ける権利でございます。さらに「その能力に応じてひとしく」というところですので、これに関しては憲法上は、例えば子どもに最適化された学びをデジタルの技術を使って提供することに対しては、本件はなんら障害にはならない。ただし、学習権において子どもがひとしく教育を受ける権利をどういう形で定義し、デジタル化していくかに関しては、かなり内容が変わってくるということを、冒頭にお話しさせていただきたいと思います。
教育権にまつわる世界的な潮流で言いますと、1989年、子どもの権利条約に至るまでの道筋に関しては、国際的な決め事として、子どもの教育を受ける権利が明記されておりますので、それに関しても齟齬なく進める必要があります。
また、23条4項ですね。国際協力の精神によって、分野の自国の能力および技術を向上させ、並びに自国の能力及び技術を向上させ並びに自国の経験を広げることができるようにすることを目的とするものを促進するということが言われています。これに関しては、教育の基本的な考え方がすべて網羅されていると思うので、そこについて我が国のデジタル化に関しては問題はないでしょう。
次いで、28条ですね。教育についての児童の権利を認めると。これは当然あるんですけれども、その下に「能力をすべての者に対して高等教育を利用する教育機会が与えられるものとする」ということが明記されています。そして「すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能かつこれを利用する機会が与えられる」ということが書かれております。なので、ここの条約を素直に読むならばですね、国連の人たちも人によって言うこと違うんですけれども、子どもが主体となって、自分の教育状況はどういうものであるのか、子ども自身が自分の情報をリファレンスできるようにしなさいという意味ですということをおっしゃいます。で、そうなってくると、今のデジタル庁のロードマップの内容だと多少の不備があるということが言えるのではないかなと思います。
このあたりの問題に関しては、我が国では旭川学力テスト事件というのがございます。1976年、判決が出た最高裁のものなんですけれども、「子どもの教育は教育を施すものの支配権を持つものではない」ということが明記されています。で、子どもの学習をする権利に対応して、充足を図る得る立場にある者の責務に属するものと捉えられると。要は、子どもが育っていくにあたって、例えば国なり教育機関が支配的に、あんたこれしなさい、あれしなさいということを強制できるものではなくて、あくまで子どもの学習権があるので、学習権を満たすために教育権というものが設定されているんだよということが、最高裁の議論として出てきます。
さらに次ですね。子どもに与えられるべき教育の内容は、一義的に決定すると解することができないということがいえますと。さらには教師は内容を、主体的に決定する、自在に決定できるというわけではないよということが明記されてるわけですね。なので、例えば国もしくは教師が、学校教育の現場を上手く経営するにあたって、子どもに対して強制的に何かを出しなさいとか、もしくはこれに合意しなさいとか、そういったことを行うことはなかなか難しいんじゃないかというのは、最高裁の判断で出てくるわけです。
さらに大学教育の場合と、また普通教育の場合は違うということで、普通教育においては児童生徒にこのような能力はないと明記していますね。で、さらに子どもの側の学校や教師に対して選択する余地が乏しい、要は「クソ教師問題」っていうのがあるんですね。で、このクソ教師問題っていうのは、子どもの教育において根幹たるもので、例えば中学生が、自分の志望したい高校に行きたい時に、クソ教師がクソ内申書を書くケースがあるわけですよ。そうなってくると、子どもが行きたい高校に進学できないっていう時に、教師の影響ってやっぱり抗えないわけですよね。で、ここの教師の問題をいかにうまく掬い上げてあげられるのかっていうことを、今回の旭川学力テストでは、最高裁判決でかなり具体的に明記をしているという風に考えていいんじゃないかと思います。
その上で、結論として出てきているのは、親の教育権と国家の教育権ですね。この関わり合いについて出てきている最終の文節があるんですけれども、これはもう最高裁としてはかなり明確で、関わっている人たちがどっちが上とか下ではなくて、子どもの教育の内容について、矛盾したり、対立したりする議論があったとしても、あんたがたでちゃんと話し合って乗り越えていきなさいよっていうことを最高裁は言っているわけです。
つまりは、親の教育権と国家の教育権の関わり、せめぎ合いについては、この最高裁判決に関しては具体的な判断をしていないことになります。なぜならば主体的に関わっている人たちが、子どもの学習権を満たすために何をする必要があるのかっていうことをちゃんと考えてくださいよってことを明示しているからなんだということです。で、この中でやはり読み解くべきことというのは、子どもの学習権を満たすために、社会がちゃんとした舞台装置を学校で用意しなさいと。で、それに対して何が適切な子どもの利益なのか。学習権を満たすために、子どもの利益を果たすために、学校も親も、あなたたちがちゃんと議論をして、きちんとその目的の下で一致協力して子どもの教育にあたりなさいってことになります。
で、もうひとつの事件ですね。これは今、世田谷区で左翼区長として頑張っていらっしゃる保坂展人さんの麹町中学校内申書事件っていうものがありまして、この最終的な最高裁判決は1982年です。非常に左翼界隈から反論の多い非常に問題のある判決だと言いながら書いてあることは非常にもっともでありましてですね。ここら辺も、おそらく最高裁判決として、非常に重視される部分だと思うんです。
これは生徒の内面について記述したかどうかが争われ、判決では、内申書の記載に関しては内面を書いたわけではなく、あくまで生徒が起こした生活上の態様を書いたに過ぎないので適法だということ出た結論です。原告である保坂展人さんが麹町中学校の中で麹町中学校全共闘を名乗って左翼活動やりましたと。それについては学校側の指導を聞かないで、ビラを配って落書きをした上で、まあ、学校を休みがちであると。で、それは風邪、発熱、集会またデモに参加して疲労のため欠席しましたと。そのような内申書を書いたことに関して、事実を書いたまでであって、その人の政治主義信条みたいなものを問題視して内申書を書いたものではないということを最高裁では認定しているんですね。
これにおいて濃いグレーとされる部分、先ほどの大坂府大阪市、箕面市がやっている子どもの内面に関するデータを集約していいのかっていうことに関しては、この最高裁の判決をもってすると、必ずしも最高裁はいいとは言っていない。少なくとも、子どもの心の天気図と称して、その日の子供の精神状態をケアすることそのものは学校教育の現場としては学級運営そのものでも、これを集約して自治体が把握し、分析して、場合によっては子どもの家庭に虐待を疑って介入する可能性があるのは実に悩ましい。最高裁は子どもの内面の情報を参考にして、何らかの介入を行っていいとは言ってないわけで、非常にデリケートな濃いグレーだということが、今回の一連の最高裁判決の中でいえると。
なので、教育データの憲法問題に関しては、ここら辺の子どもの内面をデータ化して把握することの問題をどう捉えるかですね。我々が、何を、学校のデータとして収集した上で、自治体がほかのデータと混ぜて管理して良いのかっていうことに関しては、最高裁を、一定の見解は過去2つの最高裁判例中で出している内容から大変微妙だなあということが言えるのかなと思います。
最後に、教育データと医療データの違いについてもお話をしなければなりません。よく、教育データって、医療データみたいにはセンシティブじゃないんでしょ?みたいなことを言われる方って、かなりいらっしゃってですね。実際、有識者会議の個別の議事録のメモを見させていただく中でも、医療データほど重要な取り扱い必要としない教育データみたいなことが書かれてですね。
「ちがうだろ」と思いながら見てるんですけども、ただこの中で言うと、旧文部省と日教組の半世紀にわたる戦いの歴史があります。で、これは学校教育の現場から日教組の人たちをいかに外すかという戦後の文部省の戦いと試行錯誤にまみれた非常に苦しい歴史が刻まれています。いかに左翼活動家の教育者の権利を分散させて、国家が然るべき教育権というものを管理していくのか。そこに、あまり使えない人を教育委員会に送り込んでですね。まあ、行政が動かしやすい人たちを送り込んだ教育委員会の中で、文科行政を引っ張ってくれる現場として携わってくれることを前提に教育政策を積み重ねてきたという、戦いの歴史があります。
他方、医療情報は税金も使って保険医療を制度化し、皆保険制度支えたデータベースのNDB(レセプト情報・特定健診等情報データベース)という形でこれは国が一元管理しています。これは、国の保健医療を国が国民の税金を突っ込んで管理する以上、医療データベースは国が管理しますよっていうことで、法律が制定されています。医療データベースに関しては、国民すべての利益につながる、あらゆる病気の治療を行い健康を維持するという、明らかすぎるほどの利用目的の明確性があります。ですから、医療データと教育データに関しては、そもそも利用目的の明確度に関しては違いますねと。あと、医師や歯科医師という国家資格に関して、非常に強い倫理規定が控えているので、医師がみだりに悪いことしないだろうと。
ただ、教師だったら旧文部省との戦いの経緯もありますし、そもそも国が一元管理しない前提で制度設計をしている以上、医師よりは、悪いことするだろうみたいな。実際、質の低い教員が児童ポルノで摘発される事例を見たりすると、そう思ってもおかしくないわけですが、そういうようなニュアンスの部分があります。
なので、文部科学省が、その予算をもって一元データベース化するぞみたいなことに関して一部報道で誤認があったと思いますけれども、これに関してはやはり分散管理を前提として制度設計が行われるとしていますと。しかしながら、それに関しては最初、デジタル庁でも明記されましたけれども、子ども個人個人に対して識別子を振って、IDを振って仮名データを作って、そこで管理をしていくんだということは明確に示されているし、述べた通り自治体が子どもの教育データを使って児童福祉の観点から教育データを使うぞといい、また、個人個人の子どもに最適化された学びとして学習ログを解析し個人にフィードバックするのであれば、それはそもそも匿名化ではないよね、という話になります。
やはり教育データと医療データは全く異なるものなんだけれども、情報の性質という観点から見た重要性においては、何ら変わることのない国民の個人に関する情報なのだということを、ぜひご理解いただければと思います。
で、この中でちょっと高木先生にもお話をいただきたい部分ではあるんですけど、分析によって選別されない権利や利益のところですね。明確に概念を提示するべきところなのかなという風に思います。
最高裁判決で見た通り、実は教育権の主導者も、そもそもはっきりしません。みんなで関わっているやつは、子どもの学習権を達成するために話し合えや、それによって、合理的な教育が子どもの利益のある形で出来ることを前提にして、お前らは学校生活を送らせることが大事なんだぞということを言ってます。さらに学生、子どもの内面に関する情報で選別したり行政が家庭に介入することはグレーですねと。それに対して、例えば子どもの心の天気というものを自治体が作った条例で集めたデータを、問題のある児童もない児童もまとめて、ダッシュボードの中に放り込むこと自体が適法なのかどうかっていうことは、もう一回議論されるべきだと思います。
最後は、義務教育での子どもの意思決定には当事者能力がないんだという前提があります。コントローラーは誰なんだという話に尽きます。
デジタル庁のロードマップの中でも、なぜか「原則として本人同意」というのが出てくるんですけども、ただ当事者能力がないと最高裁判決で明記される子どもの意思決定能力をどう判断するのかは議論のテーマにせざるを得ません。
医療データベースもそうですけれども、子どもに関する情報が一元管理されない、国家による一元管理をされない前提で制度設計をする必要があるとされます。牧島かれんデジタル大臣まで出てきて「教育データは国が一元管理しない」っていうのだから、実際そうするのでしょう。ただ、これは本当に憲法が求めている、教育に対する考え方がデジタルによってどう変容しているのか、そのためにはどこに子どもの情報があって、どのような分析がされて、その結果として、どういう選別がなされるのかということが、より説明能力のある形で進路提示されるべきなんだろうなということが問われます。
けれども、それに対して、おそらく今の教育データのロードマップの中では、全体像を管理できる人は、そもそもコントローラーがいないし、国も教育データを一元管理しないので、そうなると学校の現場か教育委員会か自治体か、どこが全体を把握して子どもの教育データを管理し、アプリなどの利用合意をするんですかという疑問が当然でてくるので、そこに対してどう担保しているのかについて、やはり議論していくべきなのかなと思います。
以上です。
高木:なるほど、ありがとうございます。まず、大阪箕面市の事例がチラッと出てきました。これは後で詳しく事実関係についてご説明いただきます。そういう事例が始まっているのを踏まえた上で、今、山本さんからは、最高裁判例を2つ引いていただいて、この教育データ的なもの、内申書に書かれている事実、そこにどういうことを書いていいのか、一定の判断らしきものが、過去にも出てますよという話をいただきました。それから、教育データと医療データとの違いってどうなの?っていうことを頭出ししていただきましたから、ここで議論していきたいと思います。
誰がコントローラー? 子どもの同意?
高木:まず板倉先生、いろいろ頷いてらっしゃいましたけど、思ったところありますですか?
板倉:はい、教育データ利活用ロードマップは私も拝見しました。色々な論点は全部さらっていただいたと思うんですけど、例えば、私のところに事業者がご相談に来られたら、私が最初に聞くのは、「誰をコントローラーにして、誰をプロセッサーにして考えてるんですか?」ということです。教育データ利活用ロードマップは、必ずしもデータ保護の観点から書いてあるわけではないので、誰がコントローラーで誰がプロセッサーか、という点は書いてないんだろうと思います。データ保護を考えたいのであれば、まず誰がコントローラーですか?ってところが決まらないと何も始まらない。
教育とデータ保護の関係でいうと、特に公教育とデータ保護は(制度の)相性がすごく悪い。公立の小中学校との関係で誰がコントローラーかというと、個人情報法制の観点では、(2020年改正全面施行前は)条例の「実施機関」の個所を参照することになり、2020年改正の全面施行以降は、「行政機関等」(2条11項柱書)という概念を参照することになります。ここで、実施機関や行政機関等に該当するのは教育委員会なんですね(2条11項2号の「地方公共団体の機関」)。つまり、個人情報保護法との関係では、教育行政情報の管理は教育委員会が行う。各学校は、個人情報保護法の単位でいうと教育委員会の一部ですから、必要な範囲で各学校に共有すればよいということになる。事業者内部での利用と同じです。しかしながら、教育委員会はそれぞれの学校の自主性を重んじますというのが建前なんですね(文部科学省中央教育審議会「新しい時代の義務教育を創造する(答申)」(平成17年10月26日)など)。その建前と、このデータを行政機関等としての教育委員会ががっちり集めて管理するっていう話がすごく相性が悪い。だから今の個人情報保護法制でできるのかという問題があります。
病院なども、個人情報保護法制とはあまり相性がよくないです。2020年改正法は、病院に関する個人情報保護法制は、設置者にかかわらず民間事業者に適用される法制としましたが、医療法なんかは、紙のカルテの管理とか病院単位なんですね(21条以下)。でも、個人情報法制上は(個人情報取扱事業者に該当するのは)法人じゃないですか?医療法人ナントカ会とかが出てくるわけですよ。法人化していない場合は個人事業主である医師が個人情報取扱事業者ということになる 。だから、例えば、治療の最中に自分の知り合いの先生にちょっと電話して聞いて、治療方法を聞きましたと。これ、一応第三者提供に当たるわけですけど。で、それをカルテに書き込みましたっていうと、個人データの第三者提供が行ったり来たりするわけです。第三者提供記録は医療法人ナントカ会に出しました、代表者は誰ですって一応書かなきゃいけないことになっとるわけですよ。そんなの、知らないですよね(笑)。病院のナントカ先生だと思ってやってるわけですね。なので、同じように相性が悪い。
教育データのコントローラーは誰かという問題に戻りますが、ロードマップには書いてないとのか、まずまあ決まってないんですね。決まってない状態だといえると思います。決めるとしても、今説明してきた通り、教育委員会って、本当に教育ログとか管理するようなところですか?という問題が生じます。
もうひとつ、ロードマップには色々なところでPDS(Personal Data Store)とか情報銀行とか出てくるんですけど、本当に子どもに判断させるの?という問題があります。子どもがですよ、「ワタシの情報は、この先生からこの先生に出してもらって判断してもらった方がいいな」って判断するんですか?うちの子は二人とも小学生ですが、放っておいたらひっくり返って、YouTube見てるわけですよ。自分の教育ログについて考えろとか言ったって無理でしょう。
子どもの同意能力というのは、もともと、個人情報保護法制がほったらかしてきた問題なんですよ。個人情報保護法上、代理概念は限られた場面で出てきますけど(37条3項等)、代理はもともと財産法上の概念なんです。プライバシーとか人格権についての代理というのをどうするかっていうのは、今に至るまでよくわからないんですよ。これはRISTEX(国立研究開発法人科学技術振興機構社会技術研究開発センター)で認知症の研究に少し参加させてもらった時も、そういう風に言ったんですけど(「シンポジウム 判断能⼒が不⼗分な⼈の個⼈情報保護について考える」2016年9月11日、全国町村会館) 、いまだによくわからない。教育データの問題に、よくわからないまま突っ込んでいいのかっていうことです。個人情報保護法上の同意能力が何歳から生じるのかというのはよくわからない。GDPRも幅を持たせて、この幅で決めていいよってなってるんですよね(8条1項) 。それはビジネスの話で、要するにSNSとかを使うときの同意の話という文脈で出てくるんですが、これ、31カ国でバラバラなんですよ(笑)。
だからこの2つを決めないまま進めるのは、まず落第案なんです。データ保護法的には落第。そのまま進めたら、絶対後戻りできないぐらい失敗するので、まず一生懸命考えないといけない。それを個人情報保護法の解釈として考えるのか、教育データ法みたいなことを考えるのか、もしくは教育法制で考えるのか、それはもう一個先の話ですよ。まず一生懸命、コントローラーと、子どもの同意能力について、かなり議論しないと進まない。
高木:なるほど。まずコントローラーを明らかにしないといけないということですね。これ、イギリスICOの解説書なんか「誰がコントローラーか特定せよ」から始まるんですけど、日本では何を読んでも誰もそんなこと解説してないですよね。政府自身も説明会とかシンポジウムの開催案内で誰が個人情報の取扱主体か明らかにせず業者に丸投げするのを繰り返してて、何回言っても治らない(笑)。それから子どもの同意ですよね。これ、また後半でも出てくると思います。デジタル庁のQ&Aのところで。
鈴木先生、今のお話を伺ってどうですか?
権力分立の果実は「自由」
鈴木:行政法研究者で最高裁判事の宇賀克也先生が、最近、個人情報保護法の本を2冊出されてますよね(宇賀克也編著、宍戸常寿=髙野祥一著『2021年改正 自治体職員のための個人情報保護法解説』(第一法規)、宇賀克也『新・個人情報保護法の逐条解説』(有斐閣))。 それを読むと、2000個問題解消を拙速にやってしまったのではないかと若干懸念されていて、その中で、「分権的個人情報保護法制」の果してきた役割を、もう少し考えるべきだと示唆されているのですね。このご指摘は、非常に重要であろうと思っています。
ちょうど今回の教育データの問題で誰が管理すべきか、誰がデータコントローラーたるべきか。国か自治体かというような話が持ち上がっています。自治体単位の教育委員会が、国家の中央集権的な個人データの取り扱いに関して、まさに分権的に個人情報を管理するならば、すなわち2000個問題のままであれば、国家の暴走を抑えられるのではないかというような論点を惹起しているとも言えますね。それが一つに、一元管理は悪だという野党からの批判ですね。一元管理の意味自体もどう捉えているか相当怪しいところがありますが、一元管理が即中央集権的で問題だというのも極めて短絡的な批判で、マイナンバー制度や住民基本台帳制度は電算化に絡んで当初から議論があるところですが、戸籍制度まで自治体ごとに分断されていいのかということになる。一元管理が悪となれば、親族相続関係も徴税も福祉行政も今回のコロナ対策の情報管理も、全てに支障が生じることになります。要は、その業務の目的の適正さと、個人情報の利用目的の適正さなど、あるべき個人情報保護法上の点検の精度と統制のあり方との総合的評価になります。
教育データも次世代に向かってブレイクスルーする天才児、ギフテッドを発見し育成するという目的を持たせるのであれば、国家的規模で行うところで、個人データの濫用問題への対応を議論すればいいということになります。
また、分権的個人情報保護法制でいう分権とは具体的に何を分権するものかというのも問題です。少なくともルール自体を市区町村レベルまで地方議会に委ねるほどに分権するのはおかしいと思います。分権の果実は自由ですよね。それは個々の組織や機関を分立させ、相互にチェックアンドバランスが機能するところで獲得できるものです。中央政府は三権分立ですし、国会は二院制です。地方分権は、中央政府と地方政府という構図での問題において機能するものです。
ルールを地方議会で個人情報の定義から何から定めてばらつくことが、分権的個人情報保護法制の目指すところではないだろうと。では何を持って中央と地方の権限を分配して、自由の果実を得るのかと考えた場合に、ひとつに、やはり、データコントローラー概念というのは役に立つのではないか。要するに、公的部門においても、コントローラーが誰かっていうことを検討し、法律に明記する。コントローラーを複数置くことで、共同コントローラー間の役割分担を法定し相互にチェックアンドバランスが機能するように設計できるのではないかとも思います。コントローラーとまでは言えなくても管理権限の一部を自治体に与えることもできるだろうと思うのです。
ルールは国会で定める。その監督含めた権限は個人情報保護委員会に集める。そして法的ルールの統一を土台に標準化を進め、国の予算でシステム化を図る。教育は国家百年の計ともいいますから、その事業目的が適正であれば、教育データのための唯一無二のIDが児童生徒に悉皆的に付番して、法定利用目的の制限の範囲内において、統制しながら使うこともできます。要するに一元管理してもいいわけです。今後噴き出してくる消滅自治体問題にも対応できるでしょう。教育の情報化は過疎地においてより効果を発揮します。地方自治といいますが、人口増加と高度成長期のそれと、これからのそれとは違います。地方自治制度も統治機構も人口減少の弊害を踏まえて修正していかざるを得ません。教育データの制度設計に限らず、多くの立法政策において考慮していくべき論点の一つです。
そうした中にあって、分権的個人情報保護法制を考えるのであれば、法的ルールと権限は国に統一しつつ、データの管理権限の一部は地方自治体に残す、例えば、一定の範囲で国へのデータ提供を拒否する余地を残すことも一案だろうと思います。教育制度にかつての運動論的な党派性の強いイデオロギー的なものが混入してくるのは大いに問題です。
あの旭川学力テスト訴訟の問題で山本さんが示唆していましたが、国家教育権か国民の教育権かっていう、古い議論があって、最高裁はそんな極端な議論は取らないと折衷説の方に行くんですが、コントローラーは誰にすべきか?という問いかけになると、かつての教育権論争のようなものが再燃するのではないかと危惧させられるものがあるんですけど。コントローラーに関しては、決めの問題になる場合もあるにはあるけども、基本はコントローラーたるべきものがコントローラーたれという規範が働きます。要するに、その事業において、誰がデータベースを設計すべきか、誰が利用目的を特定しその他の義務を遵守すべきか、誰が行政庁の規制の矢面に立ち、誰が本人からの開示等の請求や苦情処理に対応すべきか。当該事業の実態から決まるものなのです。要するに、そもそも何のために誰がやるのかっていう素朴なところすら見えてこないところが非常に問題というか、論外というか。ここでは誰が教育データを用いた個別最適化教育をするのか実施主体が決まらないと話しにならない。教育理念と教育目的があって、個別最適化教育の具体の教育プログラムなどがあって、児童生徒のどのデータがどこに生成されて、それをどう取得して、どういう手順で処理してその結果をどう使うか。本件業務システムの基本仕様がざっくり示せる程度に詰めた事業モデルを作りながら自ずと決定されるんですよ。逆にコントローラーが決まらないようであれば事業モデルも完成しませんよ。
昔JILISで研究しないかと言われて、あまりに専門外なんで無理とお断りしたことがありましたが、いわゆるギフテッド、天才児を発見してどう育成するかという研究ですね。ギフテッドのためにどのような教育データをどのように収集し、どう分析し、どう使うのか?ボトムアップ型のいわゆる落ちこぼれを平均的なところまで引き上げていくために使うそれとも大きく異なります。その目的如何で収集する教育データの項目、フィールド名が異なってくるわけですよ。その事業の目的がわからなかったら、個人情報の利用目的の特定などできないですよね。PIAもプライバシー・バイ・デザインも無理です。そもそもどんなデータがあるか、とれるか、何が必要かもわからないでしょう。そこを聞きたいのですよ。そもそも素朴に何やりたいの?って段階じゃ個人情報保護法上の評価はできませんよ。実はまだ学術研究段階、モデルの設計の試行錯誤段階じゃないんですかね。個別最適化教育は大賛成ですけど、いきなり社会実装で、走りながら考えるというのでは、まったく容認できませんよ。
コントローラーって何?
高木:えーと、コントローラーコントローラーって、みなさん叫んでますけど(笑)、今日ご覧になっている方、何のことかわからないかもしれない。若干補足しておきますと、OECDガイドライン見ていただくと、definitionsのところに「data controller」っていう用語が定義されています。GDPRでは「controller」と「processor」という用語が規定されてます、と。日本法だと「個人情報取扱事業者」のことかな?と思われそうですけど、これ、用語の違いだけじゃないんですね。コントローラーっていうのは、その組織がその責任でもって個人データの流通をコントロールする、統制する。まさにデータの流れを制御するっていう意味なんですけど、日本法の「個人情報取扱事業者」って、なんか受動的ですよね。対象情報を持ってしまったらかかる義務の名宛人っていうだけで。
板倉:日本語だと「保有個人データ」っていうのが、民間法の方に概念としてありますけど(個人情報保護法16条4項)、その「保有」者なんですよ。ただ、なぜか日本では「保有者」って概念は使ってないので、概念としては出てきません。まあ保有個人データでいう保有している、個人情報取扱事業者が、一番概念としては、コントローラーに近い。
高木:でもあの規定もなんか変ですよ。いや、いろいろ言い始めると時間がなくなるのですが(笑)
鈴木:あの個人情報、個人データ、保有個人データの同心円状の図も悪さしてますね。私も普及に一役買っておいて何ですが。単に包含関係だと思ってるのね。個人データと保有個人データってね。板倉先生のおっしゃる通り、あの「保有」にはデータコントローラー的概念が滲んで反映されていますね。
高木:「保有個人データ」の定義の解説を見ると、開示とかできる権限を持ってる者だって書いてあって、トートロジーですよ(笑)。
鈴木:そう、トートロジー。何のためにどういう役割を担う存在か、法律も正面から設計していませんからね。
高木:まあまあ、その話は今日はやめておきましょう。
鈴木:ひとつ言わせてもらえれば、日本法は対象情報に依拠しすぎなんですよね。管理統制する主体の定義とその役割を忘れてるんですよ。法規制は、一般的に①主体、ここでは本来なら「データコントロラー」ですね。それから②客体、ここでは「個人データ」などの対象情報、そして③行為、ここでは「処理」でしょうか。普通はこの3点を考えるんですけど、主体たるデータコントローラーに着目しているGDPRとは異なり、日本法は、対象情報に過度に着目するから、いろんな対象情報が設計され、そこから主体が定義される妙な構造の法律に向かっています。
高木:そうそう、ナントカ取扱事業者が4つくらいある(笑)。
鈴木:立法技術的にも、もう少し工夫の余地があったと思いますね。
高木:法制局何やってんだって感じですよね。
鈴木:そこは、法制局も起草担当官の原案を踏まえてのご指摘でしょうから。
高木:いや、うーん。
鈴木:もう少し学界含めて、立法政策的なアイデアを提言していかねばですかね。担当官も見るべき論文や海外の調査レポートがあまりに少なかったと苦言を呈されていました。JILISの創設もそのあたりの批判を受けて、じゃあ、何かそういう機能を作らねばというところからもはじまりましたからね。
高木:はい。それから次に、医療データと教育データの違いという話がありました。何ですか? 医療データはセンシティブだけれども、それに比べたら教育データぐらい、みたいな声があるんですか? そんなこと言ってる人がいるんですか?
山本:少なくない議論は出てます。有識者会議の質疑で「医療がこれだけ進んでいると言われて、同じように個人の情報を扱っていくわけですから、医療は進むけれども教育は進まないというようなことはぜひ避けていただきたい」などの表現が容易に飛び出すわけですよ。教育データは医療と違って子どもは悉皆であって、ニーズがあり病院にやってきた病人を扱ってるわけじゃねえんだよ。全然別物だろということで、さすがに問題じゃないかということは、ツッコミとして入れたりはしてるんですけれども、個人に関する情報で、医療データは大事だと医療データに準ずるっていう言い方をする方が非常に多いのは、まあ現実です。
高木:なるほど、それはちょっとまた後で議論になると思います。
山本:なります。この後資料を用意してます。
GIGAスクール構想のなりたち
高木:じゃあその時にまたやりましょう。それじゃあ次ですね、この後は、GIGAスクール構想の説明をしていただけるんですか。
山本:はい。なぜその話を必要としているのかというと、今回の教育ログ、もしくは、いわゆる教育データ全体の関わり合いにおいては、教育行政の変遷っていうのは非常に大きなバックグラウンドがあって、時系列的なスコープがいくつかあります。
例えば、この後出てまいります、未来の教室プロジェクト。経済産業省が文部科学省と協力してやってるものなんですけれども、このあたりは本当に欧米教育からの脱却という文部科学省の話と符合して、それこそ、明治維新のときのいわゆる欧米教育で、富国強兵策のために使った教育メソッドが今もなお生きてますねみたいな、そういう結構、大上段な議論があるのに対して、GIGAスクール構想からソサエティー5.0、さらにデジタルトランスフォーメーションなどは、ここ35年ぐらいのスパンで起きていることが政策のベースになっていると。ここら辺の議論から、事実的にはスタートしてるんじゃないのかなということで、ここに関しては少し解説をさせていただきたいと思います。込み入った話をして申し訳ないです。
もともとは、1996年OECDの知識基盤社会ですね。これの提唱がまずありました。この知識基盤社会の提唱からほぼスタートしたといっても過言ではないぐらい、各国ここからスタートしているのが、いわゆるデータと収集と利活用、およびテーマとしての教育に関する議論です。それを文教政策に落とし込みましょうみたいなことが出てくるのは、2003年のPISAショックですね。これは日本人の子どもの読解力は国際比較8位から15位転落したということがあって、それによって、ゆとり教育が非常に強い批判を浴びました。実際にはゆとり教育が直接の原因ではないんですけれども、ただその時行っていたゆとり教育によって、非常に公教育のカリキュラムは一部削減をされて、例えば、円周率に関して3.14からおよそ3にしてみたりと、なんでそんなことしたね?みたいなことをしていました。その時はかなり批判をされたんですけど、あとから振り返ってみると、実はゆとり教育はあんまり関係なかったんですけど、ただ、PISAショックが契機となって、中教審が我が国の高等教育の将来像ということで打ち出して、96年、OECD知識基盤社会の議論から約10年遅れてようやく具体的な施策が政策のテーブルに乗ったというのが経緯でございます。
この96年のOECDのものについても、その前の95年にですね、windows 95が出たり世界的にデータに対する関心が向けられたこともバックグラウンドになりました。いわゆるインターネットの普及と利用促進で、利便性が高くなっていくプロセスにおいて、それと合わせて教育の現場にも、技術の波がやってきた形です。そこからさらに10年過ぎて2011年ようやく第二次安倍政権の中で、大学政策と国家の科学技術イノベーション戦略のてこ入れとして、この知識基盤社会に類するものが出ました。長かった。ここではいわゆる問題解決能力という言い方をしますけれども、学力観からすればまさに「脱暗記力」です。大学入試試験で一発で、その前は、この大学行ける、この大学行けないこの点数足りないよみたいな形で、行ける大学が決まることによって、人生がそこで決まってしまうかのような大学受験だったらよくないということで、脱暗記力、脱学力スコアの入試からいかに脱却するかと、教育改革の必要性が叫ばれたのが、伏線としてございます。
その次は2011年成長戦略会議以降も画策に関して、これはもう概念だけですけど、骨太の改革は毎年出される中で、教育改革の話は常に出ております。その後、ソサエティー5.0、これは先ほど申しました総合科学技術イノベーション会議、2015年提唱されたものです。その後の学習指導要綱の2017年改定が完了して施行された。それを受けて当時文部科学大臣をされた柴山昌彦さんによる「柴山プラン」において、教育データ利活用に対する非常に重要な概念が発表されました。
それと並んで、経済産業省が未来の教室プロジェクトを開始。これは不登校児であったりとか、もしくは未踏の子どもたちの能力をいかに学校の現場から切り離して上手くきちんと展開して行くのかということが模索された有意義なプロジェクトではありますが、ここがようやく2018年に出る。その流れでGIGAスクール構想が出ます。文部科学省と経済産業省のある意味、教育をどうするのかっていうことを考えた上で出てきたのが、GIGAスクール構想で、ここに絡んで、教育DX化構想というのがあり、さらにコロナになります。そこで文部科学省から、ある意味英断として「学びを止めないこれからの遠隔・オンライン教育」「学びの保証」総合パッケージというのが出てきました。
このように、デジタル化の進展に伴って、いろんな政策的建付けがあって、まあ一応は進展してきたというのがいまの議論の土台です。その中において、子どもの教育とは誰のものかという話は置いておいて、今ある技術を教育にいかに生かすかということで、いまの学校教育のICT化、DX推進の政策は、整合性を持って検討された経緯があります。
その上で、ソサエティー5.0に向けた人材育成にかかる大臣懇談会がすべてキックオフみたいな話になってます。ここで、GIGAスクール構想の大枠が示されます。当時もうすでに社会的な関心事となっていたGAFA、ビッグテックに対する対応の是非であったりとか、もしくは人工知能が当時、もてはやされ、非常に重視されたので、これを利活用するためにどのような形で各レイヤーに社会実装するのかみたいな話になって、その中で新時代の学びを支える先端技術活用推進方策が出てまいります。
これはいわゆる通称柴山プランですね。この中に赤字で書きました。「誰一人残すことのない個別最適化された学び」というテーマが提示されてます。ここで初めて「誰一人残すことのない」という、現在の岸田文雄政権につながる重大なテーマがここで示されることになりまして、その枠内で、議論されていったのは、子どもの多様化というキーワードをもとに出ているのは、未来の教室プロジェクトの先見性ということが言えるのかなと思います。
GIGAスクール端末による高級での教育データの活用政策の実施に関しては、ここ一年ぐらいで、ものすごい急で詰められてきました。これに関しては、エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証事業というのがありました。これは文部科学省、総務省がかなり細やかな議論を積み重ねて、資料価値の高いものになってるんですけども、さまざまな自治体で行われている、もしくは学校で行われている、何をデータのエビデンスにして学校教育の改善していくのかということについては、学校教育の現場からもかなり網羅的に話ができる。これはぜひご一読いただければと思います。
次いで、教育データの利活用に関する有識者会議ですね。この中間のまとめは去年3月に出ました。これは前項と比べて、驚くほどクソだという評判になっているんですけれども、先ほどもありましたけれども、そもそも誰がコントローラーやねんと。この議論を詰めるのがお前ら有識者の役割だろというツッコミ殺到であります。要するに、どういうデータの下の収納で、どういう形で利活用するねんという話です。それは子どもの学習権を追求するにあたり、何をアウトカムにするのかみたいなことに関して、きちんとした議論なく、有識者一人ひとりがそれっぽいことを言う総花的な話になってしまってるので、まとまってないまとめということが言えるのかなと思うんです。担当の官僚の方も大変に苦労されたんじゃないかというような、まとめになってます。ただ、それを受けてですね、前の菅義偉政権が、政策の実行力あったもんで教育再生会議で成長戦略実行計画を閣議決定しちゃいました。で、この中で政策目標としてかなり明確に「GIGAスクールをやれ」と。一人ひとりの学び最適化された学びを実施することを、ちゃんと大枠を作れということを閣議決定しちゃったわけですね。
これは抜粋ですけれども、包括的データ戦略の推進と準公共分野等における共通基盤の整備、これは先ほどありました、いわゆる教育データのプラットフォーム、もしくはラーニングマネジメントシステム、LMSに関するそのものを進めろということを言ってます。ここでもやはり、誰のデータをどう扱うのか、それは誰の権限でどういう合意なのかということはどこにも書いてないですね。
で、そうしたGIGAスクール構想推進による個別最適な学びや協働的な学びの充実というのがあります。これはインターネット環境、学校に入って行くにあたって、それに見合ったものを推進をせいやということを明記したものでございます。これは菅政権ならではなんですけども、もう「やれ」ということはかなり明確に書いてあります。で、データ稼働型の教育の転換による学びの変革を推進するといってますが、ここら辺の言葉の強さっていうのは、かなりしびれる交渉もあったのかもしれないですけど、やれるものは全部やったれやっていう菅政権などでの話なのかなとは思います。
そして、未来の教室プロジェクトが先進事例として、ここに乗っかってきます。いわゆるSTEAM教育ですね。学びのSTEAM化。その中で、一人、一人一台端末の環境の創出というのが、まさにこの段階でも明記されているんですけれども、最初はEdTechの導入補助金ですね。で、これは学びの現場にテクノロジーを導入することに対して、もう補助金出しちゃう教育ベンダーさん、どんどんいろんなユースケースを見ながら、次なる展開をやってねということで、先進事例(ユースケース)を作って、ロールモデルを構築し、それを参考にして全国的にどんどこ普及させろという話なわけですね。これはすでに始まっている内容もかなりあって、有意義なものもかなりあるという風には見てます。しかし、ここでもやはり問題なのは誰のデータやねんということに関して、あんまり明示されてないっていう問題なのかなと思います。
また、まだ制度的に固まっていない割に学校の現場の要請や自治体の横並びのあっせんで、Googleなどのビッグテックやリクルート、ロイロ、あたまプラスなど有力な教育ベンダーがどんどん入ってきています。良いことなんだけど、制度的に後から「実は駄目になりました。データ全部吐き出して削除してください」って巻き戻しになることも容易に想像つきますし、一度出て行ってしまって解析された子どもと子どもの家庭に関する情報はどうなるのかまだ分かりません。で、最終的にはそこに対していろんな外部環境が後から追っかけてきているのが現状でございます。
その後、eポートフォリオ。いろいろ問題があります。eポートフォリオ、学習eポータル、パーソナルデータストア(PDS)、いろんな概念に基づいた実装が進んでいます。で、最後のPDSを情報銀行にしていこうみたいな話が、総務省さんからありました。教育データがあるのだったらと、たくさん出てきましたと。超教育協会とか、小宮山さんがやっているものとか、あとICT CONNECT 21のように見える内田洋行さんとか、あと大学ICT推進協議会とか、あと経団連イノベーション委員会のように見えるリクルートさんとかですね。そういうところができて、教育データとはなんなのかといういうことをまあ、うまく見つくろって、学校教育の現場に、教育ベンダーさんがこれからもどんどん直接入ってくるというようなペースになります。
ただ、これに関しては、我が国の個人情報保護法では情報の取得の適正性、利用目的に沿ったものが、必要最小限で使われるべきだというGDPRの方針に関しては、必ずしも法的な担保がない中、かなり雑な感じで各教育の現場で、これらのものが入ってきてしまっているのが、時としてあるのは、まあ、仕方がないのかなという風に思います。なので、このあたりの問題をどう整理していくのかっていうのは非常に強く、この後議論されることなのかっていうことで、経緯について、まずは簡単にまとめさせていただきました。
僕たちずっと言ってきましたよね?
高木:ありがとうございます。こういう経緯で進んできましたよ、という整理ですね。いくつか気になるところがあったと思います。今のお話ですと、2020年の「エビデンスに基づいた学校教育の改善に向けた実証」いうのは、わりとちゃんとやっていたんですか? どういうデータがどういうエビデンスになって実際に効果があるかとかいう実験としては、ちゃんとしていた?
山本:先行事例として、複数の大学教育の現場も踏まえてですね。実証研究をどうやって積み上げるのかっていう方法論についてはかなり適切な形でやっていた経緯があるのかなと思います。ただ、じゃあ、それをその他の学校教育の現場にも横断的にやって行くぞっていうところまで当然至っていないので、そこらへんは今後の議論なんですけど。
高木:なるほど。それに対して、その次の「教育データの利活用に関する有識者会議の論点整理中間まとめ」がクソだという話ですが、これはグダグダだったと?
山本:基本的に参加されてる先生方、あと話されている論点に関するものは基本的にすべて推進です。基本的にやるんだ、教育データを利活用するのだという大前提で出ているので、教育現場における、悉皆データの扱い方とか、もしくは逆に、どういう統計でどういうアウトカムなのかっていうことに関しては、あまりちゃんとした議論になってないんですよね。「子どもの教育データをとにかく集めて解析すれば、きっと良いことがたくさん見つかるはずだ」という、数年前に流行ったビッグデータ礼賛論みたいな亡霊まで感じられる。実際には、いまの教育データはビッグデータでもマッシブでもなんでもなくて、スモールの、ヘタしたらサイボウズで充分なデータサイズなんですが、もちろんコントローラーに関する記述もほとんど具体的なものはないですし、そういった意味で何のための有識者なのかっていうのは、このまとめの中では、非常に強く疑問を呈さざるを得ない内容だったと思います。
ただ、この内容を持って閣議決定まで至ったというのは非常にパワフルでありまして、ちょっと言い方として適切かどうかわかんないですけども、後から「あ、これはアカンかったわ」と全部差し戻しになってもおかしくないぐらいのまとめです。そういった点で言うと、各論においてはそのまま別紙作れとか、何らかの形で官邸から差し戻されるべきところを、いやでも教育データの活用は教育DX化において必要なのだという菅政権の強い感覚ですね。ソサエティー5.0社会の実現に向けてということで、中央突破したと認識されるべきものなのかなと思います。
高木:なるほど。私たちも、時々、警告っていうか、注意してくださいってこと、言ってましたよね。こういう教育ログの話が出るたびにですね。「超教育」っていう名前も聞こえてきましたけど、中村伊知哉さんが昔からいろいろTwitterで言ってましたからね。教育データを使いたいのに現場が抵抗するんだみたいな。彼は、何が個人情報保護だみたいなことを言ってたわけですよ。どうも安全管理の話しかしてないんですよね。そうじゃないでしょう?っていうのは、毎回Twitterでツッコミ入れてたんですけど、誰も聞きに来ないんでね。我々としては、大丈夫ですか?大丈夫ですか?ってずっと言っていた。メッセージを出してた。
山本:出していましたね、うん。
高木:向こうがこちらに話を聞かないでやってる以上は、こっちから何も言えないでしょ。結果が出てきてからしかツッコミようがない。で、今回出てきたものがコレ。何ですかこれは!何も検討してないじゃん、何年検討してたの?!っていうのが、今の状況。やっとこうして具体的に指摘できる情勢が来たというところです。
鈴木:それはね、政府の方が悪いですね。有識者選定を毎回間違えてますからね。あの武雄図書館問題の時には、「貸出履歴なんか個人情報ではない」と言った市長さんから始まった議論で、個人情報の定義も個人情報保護法の目的もまったく理解されていなかった。しかもそれは、地域の特性として、まさに民主主義によって、または首長の解釈の権限や地方議会によって適法化されかねない危うさすらありました。また、そこで本人同意があればいいのだとお仲間有識者が短絡的な主張をした。本人同意の総和が図書館憲章の意義を没却し社会を貧相にするわけですね。我々が後に同意万能論と批判したところです。同じようなことは、米国でもソロブ先生やウッドロー先生がおしゃっているようですね。この反省はもう個人データを処理するデジタル化政策の出発点でしょうと。
これ反省してるのかということですが、10年経っても進歩なしです。今日の個人データ保護法の日米欧のハーモナイゼーションと法執行協力体制の構築と共に日米欧Data Free Flow with Trust政策を推進せねばならない時に手戻りばっかりを繰り返している。過去20年間すべてのDXにつながる政策が停滞してきたのに、デジタル社会を標榜しながら、また20年前に戻る議論するのかと。名古屋市教育委員会がアクセスログなど個人情報じゃないっていう見解でまた10数年前に戻るのかみたいな。そんな話を繰り返してて、どうやって勝ち残るんだっていうことでね、有識者委員を集めているなら初歩的問題くらい事前に意見するなどして少し何とかしろよって感じですよね。
高木:本当ですね~。
板倉:2つあるんだと思いますね。まず、個人情報保護法制が2000個問題でバラバラだったので、国公立私立をまたいで個人情報・個人データを取り扱うのが厄介だった。それから、小中学校が全くIT化されていなかったから、教育ログみたいなものも、結局その先生が紙で管理していた生徒のメモしかなかったから、進んでいなかった。ところが、個人情報保護法の2020年改正が見えてきて、フォーマット(規律)は統一されそうだと。それから、コロナのどさくさまぎれもありますが、タブレット等での自習システムみたいなのが、だいたい普及した。これらの背景があって、教育データの検討を一気にやったのではないでしょうか。だから、議論の積み重ねがないのです。
2000個問題がある間は、面倒くさくてやりたくないですよね。教育委員会に検討しろといっても、無理があるわけです。教育委員会は独立行政委員会として、教育は地方自治体とはいえ、権力から独立させるという建前があります。しかしながら事実上、市区町村の(首長部局の)職員が出向して、何人かで事務局を担当しているような自治体は少なくありません。マンパワー的にできなかったのですが、個人情報保護法制の統一と、タブレット等の普及に合わせて、とにかくやるぞという掛け声がここ数年で出たという、そういう理解です。今まで、現場は(人員的に)無理だし、(法制はバラバラで)やりたくないし、そもそもデータ化するようなものもないし、データが出来ないからやらなかったのが、まあ、なんとなく出来そうだからということで進んでるという感じですね、私の理解は。
高木:なるほどね。
鈴木:コロナで予算ついたんで、これを奇貨としてとにかく端末を導入しないとならんと。現場は、順番逆なのは重々承知されているんですよね。これを逃したら、情報化の推進は予算不足で無理だと。まずは何とか全員にパソコンや端末を与えたいっていう想いはよくわかりましたね。現場と話してて。
高木:端末入れるのはいいですね。教育コンテンツ、デジタル化もいいと思いますけどね。
鈴木:それもいいと思います。まずは道具と環境とコンテンツ、インプットの整備からですよ。
高木:さっき個人情報該当性の話で、武雄市図書館の話がありましたけど、今回はさすがに個人情報ジャナイなんてことは言ってなくてですね、個人情報だという前提で当然やるんですけど、う~んそれが、今回もまた、「個人情報保護のルールに則って行われるということは言うまでもありません」だなんて言い出してて、何の問題もねーんだよバーカ的な態度が出てきちゃってるんですよね。違う、そうじゃない。ちーがーうーだーろーっていうのが我々の指摘ですが、と、ここでちょうど半分終わりましたので、これが後半の話題になっていこうというところです。